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【アラベスク】  第8章 荊の城



第2節 鰯のそらと蝉のかぜ [12]




 夏の京都―――
 グッと拳を握る。
 迂闊(うかつ)だった。聡さえ気をつけていれば抜け駆けされる心配はないと思っていた。
 いや、聡にも油断はした。
 夏休みの学校。夜、二人は会っていた。
 英語の成績―――
 思わずクシャリと前髪を掻きあげる。
 転入してきた時と同じように、再び切り揃えられた前髪。
 思えば美鶴とまともに言葉を交わすのは、英語の成績で言い争って以来だ。今日だって、どのような顔を向ければよいのか、朝から悩み通しだった。
 駅舎に着けば、すでに美鶴と聡は机を挟んで膠着状態。仲裁として登場した瑠駆真は、実に自然な形で美鶴との会話を成立させた。
 まるで、夏休み前の(いさか)いなど忘れてしまっているかのような、美鶴の態度。
 美鶴にとってあの言い争いは、所詮は他愛のない事だったのだろうか? 休みが明けた時、どのような顔をして再会すればよいのかと悩んでいた自分は、何だったのだろう? それとも、英語の成績など何でもないと思わせてしまうような出来事が、夏休みの間に起こっていたのだろうか?
 夏休みの間に――――
 携帯を握る手に力が入る。
 自分が東京で実父とくだらない時間を過ごしていた間に、またさらに差をつけられてしまった。

 瑠駆真の夏。実父との夏。

 話下手な日本人よりもよっぽど流暢な日本語が、耳障りなほどはっきりと思い出される。

「これは重要な問題なんだ」
 ただ自分に会いたいが為に呼び出されたのだと思っていた。
「感情も大事だが、もう少しじっくりと考えてみてはくれないか?」
 自分を真摯に見つめてくるミシュアルの瞳。無理矢理引き剥がすように、瑠駆真は視線を逸らす。
「そんなの、お前らの勝手な都合じゃないかっ!」
 高級ホテルの一室。ミシュアルが、と言うよりもメリエムが用意してくれた部屋。瑠駆真にとっては、軟禁部屋のようなもの。
「僕には関係ないっ!」
「そんな事ないわ、瑠駆真。あなたの将来にも関わってくるのよ」
 諭すような黒人女性の声が、疎ましい。
「秋に、もう一度来るわ。たぶん私だけだと思うけど」
「来なくていい」
「返事を聞きたいの」
「返事なんて決まってる。変わる事はないっ!」
 そうだ。返事なんて決まってる。アイツらの我侭に付き合うつもりなんてない。
 なのに――――
「瑠駆真。あなたはね、ミシュアルがいなければ何もできないのよ。ミツルと同じ学校へ通う事すらできない」

 そうだ。自分は無力なのだ。

「なんなんだよっ」
 駅舎に居る事も忘れ、思わず呟く。
「何よ?」
 瑠駆真らしからぬ発言に、眉を潜める美鶴。ワケがわからないというその視線が、虚しい。
 僕がどれほど憤っているのか、彼女は全然わかっていない。
 わかっていないのか、わかっていないフリをしているだけなのか。
 考えなければならない事や彼女との間に障害が多すぎて、何にどう対応すればいいのかわからない。
 考えれば考えるほど、混乱する。
 頭が… 発狂しそうだ。

 すればいいじゃないか。

 頭上の、どこか不特定なところから響く声。
 狂ってしまえよ。何を我慢しているんだ。
 嘲笑う。
 お前がそうやって躊躇している間に、聡や霞流は着々と距離を縮めているんだぜ。
 響く声に戸惑いながら、瑠駆真は長い指を唇に添えた。
 確かに、僕は彼らに比べて遅れている。
 だが、特に霞流の意図がわからない。
 意図だって? そんなものに、何の意味がある?
 瑠駆真は軽く、瞠目する。
 お前の目的はなんだ? 美鶴がお前の傍に寄り添っていてくれれば、それでいいんじゃないのか?
 添えた指で、唇を摘む。
 だったら霞流の意図なんて、何の関係もないんじゃないのか?
 ごちゃごちゃ考え過ぎだ。霞流? 聡? よそ見し過ぎだよ。お前はただ、美鶴だけを見てればいいんだ。
 美鶴だけを―――







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